チェチェンイッツア−生け贄の乙女−(ごっこ)
2001年8月25日カンクンの豪華なホテルで一泊した後、マヤ遺跡チェチェンイッツアへ。
バスの最後部座席に3人で陣取り、中央に座った高村は、
「ボスみたいですね」とガイドに言われた。
だが、このボスの席は急ブレーキを掛けられたら最も危険な位置。
普通、そんなところに設定されたりはしないだろう。
チェチェンイッツアまでの間、現地ガイドはメキシコの政治・経済・教育いろんな話を聞かせてくれた。
こんな熱心なガイドに出会ったのは初めてだったが、元々スポーツ振興のためにやってきた人だったので、教えるのが好きなのだろう。
我々はまるで大学の講義でも聞くように、忙しくメモを取った。
ツアー中でこの行ないが大変珍しかったらしく、『学生』『取材』色々言われていたらしいが、メキシコのことを知ってほしい、という現地ガイドの熱意に応えていただけと言うのが正確なところかも知れない。
また、時間不足で勉強不足だった高村には大変ありがたいことであった。
(車に酔ったけどね)
快晴のチェチェンイッツア。だだっ広い遺跡群、そびえ立つピラミッド。
現地ガイドの長い解説が終わって、自由時間。
コンパクトカメラを握り締め、片っ端から遺跡に進入、撮る、撮る、撮る!
Y嬢とでーさんの解説を聞きながら、天文台に。
複雑な通路を探索すべく、140センチほどの石の通路をくぐった途端、後ろで『ごうん』
音がした。
振り向くとでーさんが頭を抱えてうずくまっていた・・・。
「大丈夫か?でーさん」
でーさんの返事は私の意表を衝くものだった。
「時間計って!」
何を言われているのか理解できなかった高村を見捨て、でーさんは自分のスポーツウォッチでタイムを計り始めた。
「よし、40秒」
転んでもただでは起きないでーさんが、Y嬢に岩を頭部に打ち付けてから、復活するまでの間のタイムを報告し、
「必ず小説中で遺跡の中を追いかけっこさせ、頭を打ち付けるシーンを書くよ!」
この文字通りの、体当たり取材に感激したY嬢・・・。
2人で盛り上がるのを見ながら、私は日本に重要な忘れ物をしてきたことに気づきかけていた。
そしてチェチェンイッツアのメインイベント!ピラミッドを登る!
マヤ文明の初期には生け贄の風習はなかったらしいが、心臓を抜いた生け贄をピラミッドの上から転がり落とすと言うのは有名な話(アステカの方か?)
「やってみねばばるまい!」
とは思ったが、怪我をしたら馬鹿らしいので、階段の下のほうでひっくり返ってみる。
Y嬢は高村より根性があったので、ピラミッドに人がいなくなったのを見計らって、頂上付近でひっくり返って写真撮影。
高村は上から、でーさんは下から写真を撮って、写真を撮りながらみんなで仲良く下りる。このピラミッドでは、たまにけっつまずいて死人が出ると言うので。高村とでーさんは慎重だった。
でーさんは後ろ向きに、高村は前向きに慎重に下りる。写真を撮りながら。
下ピラミッド(山)する頃には下のツアーの人々によって、すっかり高所恐怖症で動けなくなったのを根性出して下りてきた人々に仕立てられていた。
(人がいる階段では危なくて寝転んで遊べないから、時間を潰してきただけだったのだが)拍手でもって迎えられる私たち。何事かと思った・・・。
そして生け贄の泉の崖の上で、
飛び込むまねをするから写真を撮るように、S嬢に言われ、
「あれ〜」
とかいって笑っている彼女を、撮った。
外人さん達がくすくす笑っていた。やんねーか?普通・・・?
(やると宣言されたときには止めたけど)
でーさんが言うには厳めしい顔をした親父までが、ものすごい顔して笑っていたと言って、絵まで描いてくれたが、くすくす笑いしか高村には聞こえていなかった・・・。
半径どれぐらいの距離で笑いをとっていたのかしら〜?
さて、チェチェンイッツアには骸骨で装飾された遺跡がある。
「これ、○○部族の♪」
被征服民の首をうれしげに飾っていたらしいのだが、何せ石灰岩質の遺跡である。
何もかも白く、写真にきれいに写りそうにない、そのレリーフもあんまり根性のいった堀り方はされていないので、陰影に乏しいことはなはだしかった。
しかもさんさんと降り注ぐ日光は遺跡を反射させ、
「撮れないよね?」
同じツアーにいた、全員一眼レフを持っている東京のOLさん達なら奇麗に撮れるのかも知れないが、高村・Y嬢:コンパクトカメラ各一個、でーさん:写るんですフラッシュ付き、これではいかんともしがたいところではある。
そこで、「こんなこともあろうか」と、でーさんの鞄の中から出てきたのは、紙とパステルだった。
高村は即座にその意味を了解した。
「・・・中国の石碑から、その筆跡を写すようには写らんと思うけどなあ」
ごにょごにょ言う高村の目前に更にずいっとパステルと紙が迫った。
3人は各自これと決めた骸骨に張り付き、紙を当てパステルでそぉっとレリーフを写し取ろうとした・・・が、コンクリートブロックのような岩質ではうまく行くわけもなかった。
「あかんよこれー」
とか泣き言を言っていると、
「今、笛の音が聞こえなかった?」
「気のせいじゃない?」
「いや、気のせいじゃないよ」
そう、世界遺産チェチェンイッツアの警備員が2人笛を吹きながら背後に迫っていたのだ。
怒られて紙を取り上げられた我々は、心から反省して
「あいむそーりー」
日本語以外の何者でもない発音で叫びながら、
Y嬢、高村、でーさんの順で逃げ出した。
その背に警備員の笑い声が突き刺さったのは言うまでもない。
(なぜこの順序にこだわるかと言うと、先に逃げたと攻められた?から。
この場合、50歩と100歩の差はかなり大きいと高村は思うのだ。
3人しかいないわけだし)
逃げながら、高村は日本に何を忘れてきたかに思い当たった。
『ブレーキ!ブレーキを忘れてきた!アクセルばっかりだよこのメンツ!』
だって、1月は病院休ませられないじゃん。
高村のお気に入りのブレーキは、有間ジローちゃんという・・・。
きっと君なら我々を止められたはずさ・・・。
バスの最後部座席に3人で陣取り、中央に座った高村は、
「ボスみたいですね」とガイドに言われた。
だが、このボスの席は急ブレーキを掛けられたら最も危険な位置。
普通、そんなところに設定されたりはしないだろう。
チェチェンイッツアまでの間、現地ガイドはメキシコの政治・経済・教育いろんな話を聞かせてくれた。
こんな熱心なガイドに出会ったのは初めてだったが、元々スポーツ振興のためにやってきた人だったので、教えるのが好きなのだろう。
我々はまるで大学の講義でも聞くように、忙しくメモを取った。
ツアー中でこの行ないが大変珍しかったらしく、『学生』『取材』色々言われていたらしいが、メキシコのことを知ってほしい、という現地ガイドの熱意に応えていただけと言うのが正確なところかも知れない。
また、時間不足で勉強不足だった高村には大変ありがたいことであった。
(車に酔ったけどね)
快晴のチェチェンイッツア。だだっ広い遺跡群、そびえ立つピラミッド。
現地ガイドの長い解説が終わって、自由時間。
コンパクトカメラを握り締め、片っ端から遺跡に進入、撮る、撮る、撮る!
Y嬢とでーさんの解説を聞きながら、天文台に。
複雑な通路を探索すべく、140センチほどの石の通路をくぐった途端、後ろで『ごうん』
音がした。
振り向くとでーさんが頭を抱えてうずくまっていた・・・。
「大丈夫か?でーさん」
でーさんの返事は私の意表を衝くものだった。
「時間計って!」
何を言われているのか理解できなかった高村を見捨て、でーさんは自分のスポーツウォッチでタイムを計り始めた。
「よし、40秒」
転んでもただでは起きないでーさんが、Y嬢に岩を頭部に打ち付けてから、復活するまでの間のタイムを報告し、
「必ず小説中で遺跡の中を追いかけっこさせ、頭を打ち付けるシーンを書くよ!」
この文字通りの、体当たり取材に感激したY嬢・・・。
2人で盛り上がるのを見ながら、私は日本に重要な忘れ物をしてきたことに気づきかけていた。
そしてチェチェンイッツアのメインイベント!ピラミッドを登る!
マヤ文明の初期には生け贄の風習はなかったらしいが、心臓を抜いた生け贄をピラミッドの上から転がり落とすと言うのは有名な話(アステカの方か?)
「やってみねばばるまい!」
とは思ったが、怪我をしたら馬鹿らしいので、階段の下のほうでひっくり返ってみる。
Y嬢は高村より根性があったので、ピラミッドに人がいなくなったのを見計らって、頂上付近でひっくり返って写真撮影。
高村は上から、でーさんは下から写真を撮って、写真を撮りながらみんなで仲良く下りる。このピラミッドでは、たまにけっつまずいて死人が出ると言うので。高村とでーさんは慎重だった。
でーさんは後ろ向きに、高村は前向きに慎重に下りる。写真を撮りながら。
下ピラミッド(山)する頃には下のツアーの人々によって、すっかり高所恐怖症で動けなくなったのを根性出して下りてきた人々に仕立てられていた。
(人がいる階段では危なくて寝転んで遊べないから、時間を潰してきただけだったのだが)拍手でもって迎えられる私たち。何事かと思った・・・。
そして生け贄の泉の崖の上で、
飛び込むまねをするから写真を撮るように、S嬢に言われ、
「あれ〜」
とかいって笑っている彼女を、撮った。
外人さん達がくすくす笑っていた。やんねーか?普通・・・?
(やると宣言されたときには止めたけど)
でーさんが言うには厳めしい顔をした親父までが、ものすごい顔して笑っていたと言って、絵まで描いてくれたが、くすくす笑いしか高村には聞こえていなかった・・・。
半径どれぐらいの距離で笑いをとっていたのかしら〜?
さて、チェチェンイッツアには骸骨で装飾された遺跡がある。
「これ、○○部族の♪」
被征服民の首をうれしげに飾っていたらしいのだが、何せ石灰岩質の遺跡である。
何もかも白く、写真にきれいに写りそうにない、そのレリーフもあんまり根性のいった堀り方はされていないので、陰影に乏しいことはなはだしかった。
しかもさんさんと降り注ぐ日光は遺跡を反射させ、
「撮れないよね?」
同じツアーにいた、全員一眼レフを持っている東京のOLさん達なら奇麗に撮れるのかも知れないが、高村・Y嬢:コンパクトカメラ各一個、でーさん:写るんですフラッシュ付き、これではいかんともしがたいところではある。
そこで、「こんなこともあろうか」と、でーさんの鞄の中から出てきたのは、紙とパステルだった。
高村は即座にその意味を了解した。
「・・・中国の石碑から、その筆跡を写すようには写らんと思うけどなあ」
ごにょごにょ言う高村の目前に更にずいっとパステルと紙が迫った。
3人は各自これと決めた骸骨に張り付き、紙を当てパステルでそぉっとレリーフを写し取ろうとした・・・が、コンクリートブロックのような岩質ではうまく行くわけもなかった。
「あかんよこれー」
とか泣き言を言っていると、
「今、笛の音が聞こえなかった?」
「気のせいじゃない?」
「いや、気のせいじゃないよ」
そう、世界遺産チェチェンイッツアの警備員が2人笛を吹きながら背後に迫っていたのだ。
怒られて紙を取り上げられた我々は、心から反省して
「あいむそーりー」
日本語以外の何者でもない発音で叫びながら、
Y嬢、高村、でーさんの順で逃げ出した。
その背に警備員の笑い声が突き刺さったのは言うまでもない。
(なぜこの順序にこだわるかと言うと、先に逃げたと攻められた?から。
この場合、50歩と100歩の差はかなり大きいと高村は思うのだ。
3人しかいないわけだし)
逃げながら、高村は日本に何を忘れてきたかに思い当たった。
『ブレーキ!ブレーキを忘れてきた!アクセルばっかりだよこのメンツ!』
だって、1月は病院休ませられないじゃん。
高村のお気に入りのブレーキは、有間ジローちゃんという・・・。
きっと君なら我々を止められたはずさ・・・。
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